画像: 二ツ目さん数珠つなぎ

二ツ目さん数珠つなぎ

元祖(?)イケメン落語家・桂三四郎。東京に憧れ大阪から上京し、最初は「こんなに孤独感を味わうなんて思わなかった」と言うほどアウェイな心境だったという。
「東京は前座から一緒で、二ツ目になっても仲がいいという落語家が多い。自分と同じぐらいのキャリア・年齢といっても、その中に大阪からいきなりやって来て “入れて”って言ってもすぐに“どうぞ”と受け入れてくれるわけないですよね」と振り返る。
実は上方落語には、東京でいうところの前座、二ツ目、真打という階級制度がなく、師匠に弟子入りしたら約3年師匠の元で修業して、ひとり立ちというケースが多い。
「真打制度がないので、東京のようにグループが分かりにくいですよね。この連載も二ツ目をつないでいますが、正確に言うと僕は二ツ目じゃない。でも来年の秋に真打に昇進する柳家わさびさんと大体同期ぐらいなので、自分もその辺の感じで(笑)。師匠と呼んでいただいたらそれを受け入れますし、兄さんと呼ばれたらそれも受け入れます(笑)。また上方では、落語家は大体事務所に所属しています。ほとんどが、松竹、吉本、米朝事務所のどこかに所属しているので、東京に出てきたら落語家がみんなフリーなのでびっくりしました」
東京に出てきたのはあの大師匠の言葉がきっかけだった。
「落語会が終わったら、いまだに“今日、大阪帰るの?”って言われますけど、東京に出て来て8年になります。東京に来たのは純粋に憧れから。修業中に師匠(桂三枝・当時)に東京に連れて来てもらったんですけど、大阪との違いに圧倒されて。大阪もたいがい大都会だと思っていましたけど、レベルが違った。で、入門して5年目ぐらいの時に、初めて東京の仕事が入ったんです。神保町花月の1周年記念のお芝居に主役に近いところで出演させていただいたんですが、神保町花月をはじめ、どこの劇場に行っても若いお客さんがバンバン入っている。当時はお笑いブームで、めちゃめちゃ盛り上がっていたんです。大阪では落語は年齢層が高い人のものみたいに思われていましたし、漫才至上主義のようなところがあるので、漫才師のあとに落語家が出るとお客さんのテンションがトーンダウンするところがあった。それに比べ東京は受け入れの幅も広く、面白かったら受け入れてくれた。こんなに受け入れてもらえるなら、東京に行きたいなと、東京への思いがだんだん強くなっていたのですが、その後もなかなか行く機会というか、きっかけがなくて...。自分自身も未熟でしたし、週末はほとんど東京で仕事をしている状況でしたが、踏ん切りがつかなかったんですね。そんな時、東京の落語会の打ち上げで、当時からかわいがっていただいていた鶴瓶師匠に“やっぱ東京ってすごいですね”って言ったら、“東京に来い”と。“これからは絶対東京やで”って言われて、覚悟を決めました。それで次の日に所属していた吉本興業に東京に行きますと宣言しました。ラジオのレギュラーも決まったばかりでしたし、テレビにもちょこちょこ出してもらい始めていた時期だったので、事務所からは反対されましたけど、許可を取らないまま、東京に引っ越してきた。強行突破の東京進出でした」
東京に出てきたはいいが仕事はなく。
「大阪でラジオのレギュラーがあったので、東京と大阪を夜行バスで往復していました。しかし東京での仕事は全然増えなくて。そんな時に東日本大震災が起こって、吉本の劇場にもお客さんは来ないし、ほかの落語会も軒並み中止になるなど、ますます東京での仕事がなくなったんです。そうこうしているうちに貯金もどんどん減っていくし、ヤバい、ヤバいって...。それで自分で独演会をやってみようと。そうしたらありがたい事に、1回目の独演会が満席になって、人間関係も増えてきた。で、もう一回やってみようって、2回目を開催したら、その時もいっぱいになって。とりあえず、その会を続けているうちに、ちょっとずつ広がっていきました。またタイミングのいい事に、うちの師匠がCMに出演した時に僕を使ってくれて、それでちょっと顔も覚えられるようになってきた感じです」
その後、『らくごえいが』に出演したり、それが縁になりハリウッドで英語落語を披露したりするなど、飛躍的に活躍の場を広げていった。その人気は“イケメン落語家”と呼ばれる事で、さらに上昇し...。
「確かに7~8年前はそんな事言われていましたけど、全然自覚もなくて(笑)。大阪の人間なので、イケメンと言われるより、面白いって言われるほうがうれしかったですから。 “イケメンなんて関係あるかい!! ”みたいな、尖ったところもありましたし(笑)。落語家というより、イケメン落語家っていうほうがキャッチーだから、テレビや雑誌では使っていたんでしょうが、そもそもそんなイケメンでもないし。恥ずかしいんですよ。大阪は芸人しかいないので、イケメンが少ないけど、東京には本物のイケメンがいっぱいいるじゃないですか。隣にイケメン俳優がいるのにイケメン落語家って言われても(笑)。でも最近またイケメン落語家ブームがきてて、見たら僕はもう入っていない(笑)。なんか持ち上げられて梯子外されたような感じ (笑)。あの時は尖っていましたが、今でしたら全然受け入れます(笑)。なんだったら、No1イケメン落語家って言っていただいてもOKです。今はむしろその称号が欲しいですね」
ネタは新作が多いという。
「古典ももちろんやりますし、大阪の時はむしろ古典ばかりやっていました。でも東京に出て来て、稽古をつけてもらう機会が減ったのと、同世代の東京の落語家がまあ、うまい(笑)。(古今亭)文菊さんとか、(三遊亭)萬橘さんとか、めちゃくちゃネタを持っているし、うまいし面白いし。自分なんか前座に毛が生えたようなものだから、とても太刀打ちできないなと。だって大阪は3年間の修行が終わってから、前座で出るような感覚ですが、東京の落語家は前座時代に月30席やったとか言っている。僕なんかその頃は3年間で20席やったかやらないかぐらいですから。でも新作だったら、アイデアひとつでそこに並ぶことができる。新作の受け入れも大阪よりいいですし、円丈師匠の影響もあり、新作派の落語家も多いので、東京に出て来てからは新作をやるようになりました」
新作落語に海外公演、そのほかお芝居や映画に出演するなど、マルチに活躍しているが、あこがれの落語家は意外なあの人...。
「自分にないものを求めているのか、めちゃめちゃあこがれているのが、(柳家)三三兄さんと、(三遊亭)兼好兄さん、そして(春風亭)一之輔兄さんです。3人とも古典の名手で、独演会で全国を周り、テレビにも出てて、めっちゃうらやましいですし、純粋にスゴイ!と思います。自分と全然違う芸人人生ですが、自分にはコレ!って、確固とした立ち位置を確立している。僕はまだ試行錯誤しながら、落語家をしている気持ちがあるので、本当に尊敬しているし、憧れています」
育ててくれた文枝師匠、そして東京へ出るきっかけを作ってくれた鶴瓶師匠。その2人に教わったことは。
「もちろんたくさんありますが、鶴瓶師匠からは、落語家は人間修行が大事だということを教わりました。この世界の上にいる人は、すごい芸がありながら、人間として素晴らしい方が多い。そういう方を身近で見ているので、本当にその通りだなと思います。またうちの師匠からは最初に“愛される人間になりなさい”という事を言われました。どんなに面白い事を言っても、嫌われたら笑ってもらえない。感じのいい、愛してもらえる人になりなさいっていうのは、ずっと言われてますね。とはいっても人間なかなかそうはいかない(笑)。僕もまだちょっと尖っているので、嫌いな人とは絶対付き合わないとか思ってしまう。人間修行がまだまだだなと。もうちょっと大人になれたらいいんですけど(笑)」
来年は落語家になって15周年。
「早いものでもう15年。東京へ出て来てからのほうが長くなりました。来年の4月6日には、15周年の独演会をゲストには鶴瓶師匠をお招きしてやらせていただきます。大阪を捨てて東京に来たと言われて、でも仕事もなくてこのままだったら落語家をやめるんじゃないかと思った時もありました。その時に独演会をやったら50人来ていただいて首がつながった。その次もやってみたら満席になった、首がつながった。そのうち100人の会場でやってみよう、いっぱいになって首がつながった。そういう綱渡りの連続でなんとかここまできました。最初は200人の独演会ができるようになったら、この世界で生きていけるという自信を少しは持つ事ができるんじゃないかなと思い続けてきました。それで200人がいっぱいになった時に、10周年はうちの師匠を招いて、それまでで一番大きなところでやろうと。そして、15周年は500人規模、20周年でなんとか1000人集められたら、落語家として自信がもてるんじゃないかと思ってやってきた。今までは最高350人ぐらいだから、15周年の500人は高い目標ではありますが、それが成功したら、次の5年もまた頑張れる。その姿を鶴瓶師匠に見ていただくことで、恩返しと言ったらおこがましいですが、成長を喜んでいただけるんじゃないかと思っています」

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