画像: 元遊郭に泊まろう! 八戸市にある「新むつ旅館」の旅情感がすごすぎるワケ

元遊郭に泊まろう! 八戸市にある「新むつ旅館」の旅情感がすごすぎるワケ

「まるでタイムスリップしたみたい......」
青森県八戸市の中心地から少し離れた場所にある「新むつ旅館」。訪れると、誰もが安直な感想を思わずポツリとつぶやかざるをえない。コメントとしては0点の感想。でも、時代のエアポケットに取り残されてしまったかのような圧倒的存在感は、冗談抜きで、明治、大正時代に戻ってしまったかのよう。無意識に冒頭の言葉を紡いでしまう。
門構えからして威風堂々。上に向かって凸型にふくれているムクリの玄関ひさし。そして、屋根軒下は黒漆喰の壁。中に入ると、梁にかけられた大きな神棚、二階からせり出すように飾られている「おかめ」、周囲に目を配ると年季の入った箪笥(たんす)や装飾が施された釘隠しがある。「これぞ帳場」と唸ってしまうほどで、このまま時代劇の旅籠屋として成立しそうな舞台装置に、心がときめく。中山道の馬籠宿や妻籠宿などに行くと、たしかに趣きのある宿が点在しているから、「そんなに驚くことでもないでしょ」なんて言葉も聞こえてきそう。
だが、この宿は上記の風情を残しつつ、唯一無二の個性が宿っている。それは、この宿が元々は貸座敷、すなわち「遊郭」だったということだ。元遊郭の面影が多分に残る宿に泊まる――これほど風情を感じられる宿泊体験は、そうそうない。
「今度、青森県へ旅行に行くんだ。宿が楽しみなの!」
『どんな宿に泊まるの!?』
「もともと遊郭だった旅館。しかも、国登録の有形文化財に指定されている
ほどなんだよ!」
『ファッ! 行ってみたい、面白そう!』
泊まる宿が楽しみだと、旅行は何倍も面白くなる。
二階へと続く「Y字階段」の素晴らしさったらない。二階の「空中歩廊」と相成って、見事な空間演出にため息が出る。昔の職人の建築技術、そして“魅せる”ことへのこだわりは、現代のインスタとも相性抜群。色褪せない、とはこのことだ。
「“新陸奥楼”という名で明治32年に造られ、遊郭として営業したのよ。昭和32年に売春禁止法が施行されたことを機に、旅館「新むつ旅館」として再出発したの」
そう優しく教えてくれるのは、創業から数えると5代目にあたる女将・川村紅美子さん。今は亡きご主人さんのお義母さんからバトンを引き継ぎ、宿を切り盛りしている。紅美子さんが嫁いだのは、1962年(昭和37年)のこと。ご主人である久雄さんは、農林水産省の外郭団体でJAS規格を扱う日本冷凍食品検査協会に勤務していた。
「実家が旅館だとは聞いていたけど、初めて来てみると、どうも旅館にしては雰囲気が独特なのよね。格子もあるし......これって遊郭じゃないの!? ってびっくりしたわよ」
サービス精神あふれる紅美子さんは、この宿がどんな変遷を辿ってきたのかを気風よく教えてくれる。「父親がことあるごとに《職業に貴賤はない》って言っていたから、最初から遊郭だと知っていても嫁いでいたと思う」と笑い、当時を振り返る。
少し、時計の針を巻き戻そう。
「新むつ旅館」は、八戸市の小中野と呼ばれる港湾にほど近いエリアにある。江戸時代幕末、八戸は良い漁場だったので全国から漁師たちが集まっていた。
八戸の町を流れる河川・新井田川は物流の上で欠かせない要所で、河口付近に隣接する小中野は船着き場として取引所が多かったため、おのずと周辺が繁華街化していく。当然、その並びに遊郭(貸座敷)も点在していたそうだ。
ところが、1886年の大火によって多くが消失してしまったことに加え、復興後も小中野は東北を代表する繁華街として賑わいを見せていたため、明治中期に新たに繁華街を作る計画が遂行される。選ばれたのは、旧繁華街から少し奥に入った湿地帯だった小中野の南側。表通り(現在のうみねこライン、みさき通り)に面する旧繁華街とは対照的に、目立ちづらい袋小路に「新地」は誕生した。今なお袋小路は健在で、初めて「新むつ旅館」を訪れる人は、間違いなく迷うだろう。だが、この容易に入れないように計画的に設計された立地こそ、遊郭がどのような存在だったかを教えてくれるから面白い。
「当時はこの遊郭街に18軒ほど貸座敷があったそうよ」と紅美子さんが語るように、新地は遊郭を含む多様な夜の娯楽が集まっていたという。そして、昭和32年を迎える――。
「ほとんどの遊郭は旅館に生まれ変わったの。その後一軒、一軒と閉館していく中で、お義母さんが亡くなってしまって、叔母さんが一時的に宿を切り盛りすることになってね」
現在の八戸の中心地は、小中野よりも内陸部にある、いわゆる本八戸駅の南側だ。交通の主役が船ではなく車に変わったことで、人の流れは河口付近ではなく内陸部へとスライドし、旧市街地である小中野エリアへの客足は遠のいていった。苦難の時代、なぜ新むつ旅館は生き延びることができたのか。
「当時は高度経済成長期だったから、十和田湖観光が盛んだったわけ。団体客を十和田湖に連れていく大型バスの運転手さんの宿泊場所がウチだった。袋小路だから大型バスを停めるのに便利だったみたい。その後、八戸大橋の建設のために作業員の人たちがずっと利用してくれたことも大きかったのね」
昭和の時代、“元遊郭”は負の遺産でしかなかった。「ここにあった元遊郭の旅館は、後継ぎがいなくて自然に消滅していくところも多かったわよ」。また、遊郭の面影を少しでも払しょくするために改築してしまった旅館もある。この袋小路には、時代の葛藤がつまっていたのだが、いまはもう、新むつ旅館しか残っていない。
紅美子さんが、自ら宿を支えることを決意したのは、1978年(昭和53年)。39歳のとき、八戸へ移住する。
「主人は定年したら八戸に戻るって言っていたの。それに主人は、ここの長男で、私は長男の嫁だから家業を継ぐことは当時の常識だったの。それで私と娘だけで一足早く八戸に戻ってきて、この宿を切り盛りしたのよ。やってみたら、結構、旅館業が向いていたの! アハハハハ!」
紅美子さんの話す姿は、とても快活だ。心地よい。話を伺うと、生まれは東京の深川。祖父は、背中一面に文覚上人の彫り物を施した江戸消防火消しい組の頭だった、というから恐れ入る。高校卒業後、日本橋室町に住んでいた祖父母と同居しながら、東京八重洲口にあった会社に勤めていた紅美子さんは、東京っ子であり辰巳っ子。生粋の江戸のDNAが流れる女将が、八戸の元遊郭の旅館を切り盛りする――なんてドラマティックなんだろう。何度、「面白い!」と膝を打っただろう。
個性は、知らず知らずのうちに磨かれていくこともある。結果的に、改修もせずそのままの姿を残すことになった新むつ旅館は、圧倒的な存在感を放つようになっていく。テレビドラマのロケ地などとしても使われるようになり、徐々に話題を集めていく。
「若い人が泊まりに来てくれるようになったのは20年くらい前からかな。続けてみるものね(笑)。上の世代は、どうしても遊郭と聞くと悲しい物語の舞台というイメージが強いみたい。だから、どこか抵抗感があるんだけど、若い人たちはそういったイメージがないでしょ!? いろいろなことに興味を示してくれるから、コミュニケーションも面白いのよ」
なんでも外国人観光客も、ときたま訪れるとか。
「どこで情報を知ったのか、私も不思議なの! だって、電話予約だけなのよ、ここ。たまに電話を取ると、英語や中国語が聞こえてくるのよ。大丈夫かって? それがなんとかなるの! アハハ!」
さすがは江戸っ子である。この度胸や気風も、新むつ旅館の最高の個性だろう。
「私も歳だからいつまで続けられるか分からないけど、体が動く限りは続けるつもり。今は、4つの部屋、一日合計10人くらいが限界なの。でも、ここにしかない魅力は絶対にあると思うから、興味がある人はぜひ来てほしいわね」
最後に、こう続ける。
「やっぱりどれだけ歴史価値があったとしても、そこに愛情や愛着......好きじゃないとダメだと思うの。建ててから120年。あちこち傷みが激しいけど、私としては当時の姿を残しながら修復していきたいと思ってるの。これまでも、皆さまからお力添えをいただきながら大修復を行ってきた。来年あたりに表玄関の修復を考えていてね。ここまで守ってきた旅館だから、次の世代にも愛着をもって、この姿のまま八戸の歴史を伝える存在になってくれたらって思うわ」
翌朝、宿を後にするとき、「また来よう」、そう思う。
紅美子さんの笑顔が、素敵なのだ。
(写真と文・我妻弘崇)
新むつ旅館
【住所】青森県八戸市小中野6-20-18
【電話】0178-22-1736
【料金】1泊夕・朝食付き 7300円~、1泊朝食付き 5500円~、素泊まり 5000円~

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